目立つこと

仕事をしてどうなりたいか?目立ちたい。

どこかにそんな気持ちはあると思う。

問題は何をして目立つのかということ。

目立つだけなら、やり方はある。

ほんとうは、他人の目に留まって、結果として目立つ、ということだと思う。

評価は他人がするもの。独りよがりにならず、ベクトルを自分の外に向ける。

もちろん自分の中でやっていておもしろいという気持ちはあった上での話。

社会人になって必要なこと

実際に会社に入ってみると、大学で学ぶとされている「専門性」とは別のものが必要だとうすうす気付き始めた。「コミュ力」と言われてしまうが、個人的にはしっくりこない。グループの中心にいるような人が持っている力を「コミュ力」というのであれば、中心にいない人は仕事ができないのか?ということになる。そうではないと思う。

「人の話を聴く」「相手のことを慮る」「ちゃんと説明できる」ということができれば最低限やっていけるのではないか。ただ、想像の範囲内の成果にはなる。そこを突破する何かが欲しいと思うことはしばしばある。

あと、少人数を好む性格からすると、人脈というのが何ともハードルが高い。あれば好ましいとは思うものの、どうも苦手。必要に迫られたり、「おもしろがる」ということでできる部分はある。

大学はシュウカツ予備校か

受験勉強の行きつく先はというと、良い大学に入り、充実したキャンパスライフを送り、その充実っぷりをシュウカツでアピールすることになる。どう見ても、高校と大学のギャップがある。

本当は大学まで行った専門性をもって就職できるのが一番理想的に見える。果たして、シュウカツは専門性だけで乗り切れるものなのか。もちろんそうではないが、有利には働く。

個人的にはその「専門性」と呼ばれるものに救われたと思う。修士まで行ったことがどこまで「専門」なのかは置いておいて。

あと、まわりの人たちの影響というのがでかい。人的なネットワークを作れるというのは副次的な役割だろう。

学術面でもう少し大学を活かせれば良かったが。もう少しあとになって気づいてくることがあるかもしれない。

 

 

働く考

働くことの位置付けを考える。欧米では休む時には休むという。

何を大事に思っているかが違うのでは。日本では「働いているという事実」、その中身はさておき。欧米は中身が良ければいいだろうという成果主義。いくら頑張っても成果が出ない場合を考えると日本式のほうがいい。そういうセーフティーネットは張られている。


しかし、もう少し考えてみると、そもそも日本では自分の存在意義を仕事に置きすぎている。そこでダメだから、人として否定されるというわけではないと思う。仕事に存在意義があるには違いないが、子供の頃からやってきた勉強の行きつく先は就職のためだという意識が強い。勉強はそのためだけではないだろう。

 

勉強が通貨のように扱われている。通貨のように決まった尺度があるわけではないし、その多い・少ないで議論できる話ではない。もっと幅を広げるのが勉強になる。過程は大事というが、そこでどう感じられるかという奥行きを持っていることが大事だと思う。

 

5年後のJAPAN

~5年前の下書き~

5年後というと2020年東京オリンピック開催の年。
自分はどうなっているのでろうか?
東京にいるのか、いないのか?
いるとしたら、オリンピックに関わるか、関わらないか?
2020と書くだけで、オリンピックに縛られてしまう。

そもそもJAPANはどうなっているのか?

 

~2020年に記入~

オリンピックが開催されていないなんて思っても見なかった。
そしてばっちり東京にいます。7月は京都だったが。
自分の家庭環境に比べれば、JAPANは変わっていないような気がする。
ただ、東京の家の値段は上がっている。自分の気になることしか目に入っていない。

2代目アンパンマンなサンデーモーニング

~2019年の日記~

11月10日(日)

大田区の伝統工芸展に行く。息子もバタバタしていたので、ちょろっと見ただけだったが、その中で篠笛を体験。帰りにマクドのナゲット&ポテトをつまみ、結局は家の近くの駅周辺の公園でお昼を食べ、遊んだ。天気のいい日は公園での遊びでも満足か。

 

11月11日(月)

気がかりなこともありながら、細々とこなす。意外と早く片付き、帰宅。息子がおふろに入る前に帰れた。相変わらず、息子がやりたい放題やったような跡が残っていた。まだまだ感情をコントロールできないか。。

 

11月12日(火)

京都へ出張。直接話すことも多く、あっという間に時間は過ぎた。帰りの新幹線では焼肉弘弁当を食べる。新幹線内のWi-Fiが使えたので、グロ放題で動画視聴。意識高い感丸出しだが、結構充実した移動時間となった。ファシリテーションはまだまだできていないなぁ。仕込みをもう少ししておきたい。

 

11月13日(水)

ちょこちょこと会議が続き、何とかこなしていく。会議の次のアクションを意識して、臨むようにする。参加する人にとっては貴重な時間なので、有意義なものにしたい。引き続き自己啓発モード作動中。

 

11月14日(木)

長い会議が2発。時間はかかる内容だとは思うが、やり方が何かないかとも思う。グロ放題のOnePanasonicの人の動画を見る。途中からお腹いっぱいになってきた。コミュニケーションの中から何か生まれるというのはそうだろうが、コミュニケーション至上主義になっていないだろうか。もう少し自分の目の届く範囲での交流が良しとされてもいいのではないか。

 

11月15日(金)

会議も少なく、日常業務プラスアルファができた。昼に食べたカリーが、スパイシースパイシーだったため、夜になってお腹に違和感が出る。ティーバーで千鳥の相席食堂などを見る。関西の番組を観れるのはありがたい。

 

11月16日(土)

お茶のダブルヘッダー。間でラを補給。

土井先生

www.mishimaga.com

ミシマ社の対談を読む。一汁一菜の本は読みたいと思っていたが、エッセンスを少し読めた気がする。

 

<印象に残った点>

・家庭料理には他力が入ってくる、民藝のように。

・ハレの食事が増えている。カロリー過多や食品ロスに繋がる。

 →資本主義が進んだ結果だと思う。「ほどほど」がムーブメントにならないか。

・もともとおいしいものを食べる

 →人間が何でもできてしまう、という考えへのアンチテーゼ。

・食べることばかりが重要と思われがち。人・自然・道具、周辺含めたプロセスが大事。

・日々の訓練が未来への想像力や直観力を鍛えることになる。

 →自然の中での循環を視野に入れる。(リンク:分解の哲学)

  →茶道を学ぶ意義か?

・レシピにとらわれない。何かベーシックな考えを持つ。

 →茶道の型

・利他はありがとうを超える。無意識。人間は器である。

・きれいという直観、仕事でも。

 →数学の問題を解くときのきれいさ。

 

<感想>

ものがあふれた時代へのアンチテーゼとしての「一汁一菜」。土井先生はそのしゃべり方ゆえにキャラ立ちしてしまうが、その思考の深さにはうなった。

通っていた仏教系学校でしか聞かなかった「利他」という言葉が広まっているのも、自分の欲望を追求し続ける資本主義への反動ではないか。経済活動が制限されるコロナ禍という環境下では更に如実だ。

何事にも、人間(もしくは自分)を中心に置かずに、周辺・外・対象への直観を頼りにしたい。